論文「15兆円の含み損」は危機ではない

「15兆円の含み損」は危機ではない

2026年8月9日

01報じられた数字

「含み損15兆円」と聞いて、生命保険会社は大丈夫なのか、と思った人は多いはずです。

2026年8月7日、大手生保4社が抱える国内債券の含み損が6月末で15兆1,300億円(約960億ドル)に達したと報じられました。前の四半期から約7%増えています。数字だけを見れば、日本の金融システムに穴が開いたように読めます。

ただし、この4社のうち3社 ── 日本生命、明治安田生命、住友生命 ── は相互会社で、株式市場では買えません。上場しているのは 第一生命HD だけです。報道が扱っているのは、大半が投資対象になっていない会社の、会計上の数字です。

とはいえ、損失が架空というわけではありません。日本生命は同じ局面で700億円の減損を計上しました。2024年3月に日本銀行が利上げに転じてから、初めてのことです。債券を売って確定した損は年度で約5,000億円。4〜6月期だけでも、売却損2,231億円と減損440億円が積み上がっています。 第一生命HD は、ポートフォリオの入れ替えに伴う5,400億円の損失を、あらかじめ織り込んだうえで実行しています。含み損という言葉が指しているものの一部は、すでに現金です。

02数えているのは片側だけ

15兆円という数字は、持っている債券の時価が下がった分を合計したものです。ここには、生命保険会社の負債 ── 数十年先に支払う保険金 ── が入っていません。

なぜ負債が関係するのか。金利が上がると、将来支払うお金を今日いくら用意しておけばよいか、という計算に使う率も上がります。この率のことを割引率と呼びます。割引率が上がれば、負債の現在価値は縮みます。資産と負債の期間が近ければ両者は打ち消し合い、負債のほうが長ければ、差し引きの純資産はむしろ増えます。日本の生保は後者に寄っています。契約は数十年、資産はそれより短いからです。

これを実際に測る物差しが、2025年4月から始まったJ-ICSという規制です。資産と負債の両方を時価で評価します。その物差しで見た日本生命の数字は、含み損が6兆2,800億円まで膨らんだ局面で、224%から222%へ2ポイント動いただけでした。規制上の最低水準は100%です。

同じ金利上昇が、銀行には正反対に効きました。地方銀行73行の純利益は2026年3月期に36.7%増えて1兆7,118億円、73行のうち66行が増益です。大手5グループの4〜6月期も42%増でした。貸出金利は速く上がり、普通預金の金利はゆっくり上がる。銀行が抱えている負債は、短いのです。

03市場はこれをどう見てきたか

ここまでは会計の話です。では、株式市場はこの構造をどう見てきたのでしょうか。

我々は Komori リサーチ・エンジン の市場データ層にある日本株5,860銘柄の月次リターンを2008年5月から2026年5月まで並べ、各銘柄が30年国債の利回りの変化にどれだけ反応するかを測りました。市場全体の値動きは差し引いてあります。30年を選んだのは、生保が実際に持っていて、2026年5月に4%を超えて動いた年限だからです。推定に足るだけのデータがある4,711銘柄が残りました。

図 1 · 全銘柄の金利感応度と推定精度
4,711銘柄の30年金利感応度と、その推定精度。横軸は30年金利が1%pt動いたときの月次超過リターン、縦軸は同じ推定の標準誤差。点は1銘柄で、集計はしていない。

この散らばりは、見た目ほど情報を持っていません。

横軸は、30年金利が1%動いたときにその銘柄が月あたり何%動くかです。真ん中50%の銘柄が収まる幅は11.7でした。縦軸は、その推定がどれくらい当てにならないかを表す幅で、中央値は7.4あります。つまり銘柄どうしの違いは、その違いを測る目盛りの1.6倍しかありません。分散に直すと、目に見えている散らばりのうち本物の違いはほとんど残らず、ほぼすべてが測定の誤差で説明がついてしまいます。ある銘柄が隣より金利に敏感だ、とはこの水準では言えません。我々が事前登録で下限に置いた2倍は、見えている散らばりの半分強が本物である状態にあたります。そこには届きませんでした。

例外は銀行と保険業です。銀行79行のうち85%は、金利への反応の大きさが自分の誤差の2倍を超えていて、はっきり出ています。全銘柄では13%しかありません。この2業種は、集団としてではなく1社ずつの水準で、すでに誤差の外にあります。

04順序そのものが仕組みである

-20-1001020304050保険(生保)n=330.9銀行n=7923.7保険(損保)n=313.5保険(代理・比較)n=5-4.030年金利 1%pt あたりの月次超過リターン(%)
図 2 · 負債の長さの順に並ぶ
負債の長さの順に並べた金利感応度。点は各社の推定値、縦線は各グループの中央値。生保・銀行・損保・保険代理店の順序は、負債の期間の順序と一致する。

上場している生命保険3社は、いずれも誤差の外に出ています。 T&Dホールディングス が41.6、 第一生命HD が30.9、 かんぽ生命 が27.9。ただし1社あたりの推定の誤差は5〜6あるので、この3社のあいだの順位そのものには意味がありません。意味があるのは水準のほうで、3社とも銀行79行の中央値23.7を上回っています。損害保険3社は 東京海上HD を含めて13前後にそろい、生保より明らかに低い。保険を売るだけで自分ではバランスシートを持たない代理店や比較サイトは、ゼロ近傍か、わずかにマイナスです。

この並びは、負債の長さの順です。生保の契約はもっとも長く、割引率が上がったときの恩恵をもっとも受けます。銀行の預金は短く、利ざやを通じて速く効きます。損保の負債は生保より短い。代理店には、そもそも負債がありません。理屈から予想される順序が、12年分の価格にそのまま出ています。

つまり、15兆円の見出しが警告として扱っている3社は、金利上昇からもっとも大きな恩恵を受ける銘柄として、市場では長く値付けされてきたことになります。我々は事前登録で逆を予想していました。市場は会計上の数字に引きずられ、生保を金利の敗者として扱っているはずだ、と。データはその予想を覆しました。

05では、買えるのか

買えません。ここがこの論文でいちばん退屈で、いちばん重要な部分です。

我々は事前に12本の仕様を宣言しました。金利の指標3種(10年、30年、その差)、推定期間2種、加重2種の組み合わせです。各仕様で金利への反応が大きい上位10%を買い、小さい下位10%を売り、市場やサイズなど6つの共通要因を差し引いた月あたりの超過収益を測ります。結果は12本すべて報告します。

-1.2-0.8-0.40.00.4月次アルファ(%, 6ファクター控除後)12 本すべて補正後の生存0min rw_p = 0.25
図 3 · 12本の仕様、生存ゼロ
事前登録した12本すべての月次アルファ。t値が1.96を超えたのは1本だけで、12本中1本は偶然の期待値とほぼ等しい。Romano-Wolf 補正後の生存はゼロ。

統計的に意味がありそうに見えたのは12本中1本だけで、しかも符号は逆でした。12本も試せば、まぐれで1本くらいは意味ありげに見えます(期待値は0.6本です)。つまりこれは、何も見つからなかったのと同じことです。複数回試したことを補正するRomano-Wolfという手続きを12本すべてにかけると、生き残りはゼロでした。

我々は反証用の期間も用意しました。量的緩和前の2008年から2013年、30年金利がほとんど動かなかった時期に同じ手法を当てると、超過収益は出ません。この手法がどの期間でも都合よく収益を作り出す類のものではない、とは言えます。ただし正直に書くと、この期間の金利の動きは正常化局面と大きくは変わらず(月次変化のばらつきは0.096対0.120)、狙ったほど強い反証にはなっていません。

金利への反応そのものは実在します。ただし銘柄単位では誤差に埋もれ、ポートフォリオに組んでも超過収益にはなりません。市場はこの構造を、すでに価格に織り込んでいます。

06誰が売り、誰が受け止めたか

価格の外側で、もう一つ動いているものがあります。日本取引所グループが公表している投資部門別の売買状況を見ると、生保・損保が株式を売り越した金額は、2016年から2023年の平均で年4,610億円でした。それが2024年に1兆2,960億円、2025年に2兆3,670億円へ増えています。平均の5.1倍です。日本銀行がマイナス金利を解除したのは、2024年3月でした。

-10-505101618202224事業法人買い越し金融機関売り越し生保・銀行・信託兆円
図 4 · 売った側と受け止めた側
金融機関(生保・損保、都銀・地銀等、信託銀行)の売り越しと、事業法人の買い越し。2025年は10.2兆円の売りに対して10.4兆円の買いで、ほぼ相殺している。

受け止めているのは事業法人です。自社株買いを中心とした買い越しは、2016年から2023年の年2.7兆円規模から、2025年には10.4兆円になりました。同じ年、金融機関全体の売り越しは10.2兆円。ほぼ同じ大きさです。

ただし、ここから因果を読むことはできません。生保は2016年以降、一度も株式の買い越しに転じていないからです。政策保有株式の解消はコーポレートガバナンス・コードとPBR改善要請が動かしてきたもので、金利上昇の前から進んでいました。2024年以降の加速が金利によるものか、株高局面での益出しか、ガバナンス圧力の強まりか、この集計データからは切り分けられません。この節は事実の記述であって、検定ではありません。

07残るもの

15兆1,300億円は実在する数字で、その一部はすでに現金の損として確定しています。それでも、これは支払能力の危機ではありません。負債側を同じ物差しで測れば、経済価値で見た自己資本は2ポイントしか動いていないからです。

市場はこの構造を、報道よりずっと前から価格に入れていました。日本株4,711銘柄のうち、金利上昇からもっとも大きな恩恵を受ける銘柄として値付けされてきたのは、まさにこの見出しが名指しした業種です。

ただし、知っていることと、それで儲けられることは別です。事前登録した12本の仕様のうち、補正を生き延びたものは一つもありませんでした。この論文から持ち帰るものがあるとすれば、含み損という見出しを見たときに、その会社の負債がどれだけ長いかを確かめる ── その習慣のほうだと思います。

表 1 · 主要な推定値
項目
推定銘柄数4,711
散らばりのうち本物の違いほぼ0%(事前登録の下限は「半分強」に相当)
銀行79行 · 中央値 / 誤差の2倍を超える割合23.7 / 85%
上場生保3社 / 損保3社 · 中央値30.9 / 13.5
全4,711銘柄 · 誤差の2倍を超える割合13%
事前登録した仕様数12
Romano-Wolf 補正後の生存0(最小補正後p値 0.25)
反証セル(2008–2013)α = 0.266, t = 0.94
価格データ最終日2026年5月29日
注記 · データと推定の範囲
項目内容
価格データ2026年5月29日まで。ファクターは2026年3月まで。6〜8月の局面は推定に含まない
上場生保3社のみ。図2の生保の行は3点で描かれている
経済価値評価J-ICS は流動性のある年限を超えた部分を外挿に依存する
対象支払能力。解約が加速した場合の流動性は扱っていない
フロー図4は記述であり、検定ではない
  • Bloomberg (2026). Japan's Biggest Insurers Post $96 Billion in Bond Paper Losses. 2026年8月7日.
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